昭和五十一年八月十八日


御神訓
一、 忌みけがれは、我が心で犯す事もあり払う事もある。
一、 祈りてみかげのあるもなきも、わが心なり。


自分で自分の心を苦しめる、苛責の念に堪えないと云った様な事を申しますね。これではやはりおかげは頂きにくい、それが例え同じ事であっても、それを有り難いと受け、又はおかげと頂かして貰うたら、おかげが受けられる心の状態、忌みけがれを自分で云うたり思うたりしたらおかげが頂き○○をおかげと頂けばおかげになる。
女の方の赤不浄でもそうです。自分は体がけがれておるから、と神様の前にでるのを恐れる様な心ではおかげは受けられません。これは生理上おかげを頂いておるからだとお礼を申し上げる心で神様へ向かう心がおかげが受けられる、ですから昔から赤不浄とかくろ不浄とか特に黒不浄と言う、あの高神様には参られん、鳥居も潜ってはならん、近所にも行ってはならん、と言うたような、そげなことをしたら怪我すると申します。だから本質的に神様という神様は違うという事がわかります。
それでもやはり自分の心で不浄を犯したんではおかげになりません。昨日はそれによく似たお取り次ぎをさしていただいた。そしてある願いとなった。この人はいつもそう言う願いを平気で成されると思う。私が思う位ですから甘えたおかげです。そしたら神様からテレビにですね何か家具の宣伝か何かをベッドの宣伝があっているのです。可愛らしい犬が二匹、リボン掛けているのがね、出てくるのがあるでしょうが、そしてその一つがいのいぬですから、女の方の犬がねそれこそ鼻を鳴らしてね、ベッド買って良いですかと主人の犬に甘えよる。そしたら男の犬がお前にはかなわんよ、というわけですよ。そして買うてもろうてから、これで私は満足だわと、この犬が云うです。そこの場面を頂くです。だからそれが甘えることであってもです、そげな事云うからでなくて結局、ならお前にはかなわんよ、と云う犬も嬉しそうな感じで云っている。そこには良いでしょう、とおねだりをしている、しかもいつもおねだりをするわけです。けどお前にはかなわんよと言うて買ってやっておる。買ってやっておる方も憎たらしいと言う事ではなくて、むしろ満足している。だから両方が満足がいっている。それで私は昨日その事を頂いてからあんたばっかりは虫の良か奴じゃあるのと云うたら、もうこれはおかげは頂かんです。まあそう言う例を申しますとね、あの免停になっておる人が何カ月間と毎日お届けしてから、おかげ頂いた人があるです。普通の常識からいうては信心じゃそげな事あるもんかというようなのが信心の様に思うておるでしょう。ところが願う純情さというですかね、神様にお願いすれば大丈夫と信じて願いよるところに神様はああよかよかと受けて下さると言う感じですね。
だからおかげを受けるということは実に微妙です。夕べも合楽会でもその話がでたのですけれども結局神様に通うもの、神様に愛されるもの、をもっとかなければならんということですね、問題は。
こんな事をお願いしては済みませんけれどもと、言うてお願いした分では、やはりおかげになりません。これは福岡の三代志木先生がよく話しておられましたけれどもある暮れの忙しい、もう押し迫ってから小倉の親教会にお礼、毎年お歳暮を持ってお礼に行かれるのが大変忙しくて行けなかった。それで御長男に、今の親先生、に実はお父さんが行くのが本当だけれども、こんな風で忙しいから親先生によくお詫びを申し上げといてくれ、そして色々注意をされて、そして持って行かれる品を持たせて、出られる前にお願いをなさった。実は私が御参拝さして貰って、お礼に出るのが本当ですけど、こんな訳でございますからどうぞ、長男を代わりに出しますからと言うて、お届けをされたらね、お前がこうすることが本当だというとるじゃないかと、本当のことをするのが信心じゃと、お知らせを頂かれたそうです。で、あんな忙しいのも放っておいて、御自分でお礼に出られたと云う事です。だからこういう願いでは神様が聞き届けなさらん事がわかるです。悪いと言う事がわかっとるけどこらえてください。と、お前が悪いことを云いおるじゃないか、それが例えそれが不浄になるようなことでもです。
普通では不浄と思われる様な事でも、お前はその事を重ねて、そのことをこんな悪いことしよりますばってんが、お許し下さいでは、お許しくださらん。けれどもそこんところをです神様は本当におかげのあるもなきも和賀心、そこ辺ば何と云うかね、ザーッといくというか純心無雑なと云うか、神様の目から御覧になれば、親とそれこそ這い這いが出来るか出来ん位のもんじゃと云う位ですからね。今飲んだのにまた飲ませんと言う事はない。また膝によって来ればまたお乳飲ませる様なものであってね、この辺の処がおかげを頂かれる人の、ひとつのこつ合いと言うものを心得た人があります。おかげで何カ月間、おかげで免許証を持たんなりに、自動車に乗せて頂いた、だからあの人がそげんな風でおかげ頂いたとじゃから私もその通りお願いしようというたっちゃ絶対いかんです。問題はその人の心の状態が素晴らしい。神様に通うもの、云うならばそのベッドが買いたいという女犬がその男犬におねだりをしておる。ベッドが買いたいわ。そしたら親父の方がお前ばっかりはかなわんよ、と言うてから買うてやりよる。かなわんよ、と言うて買うてやりながらまんざら嫌というでもなかろう。むしろこう嬉しいごたる風、そこで今度は買うて貰うた方は私は満足だわ、と言う取るわけです。そんなのがありましょうが、あの辺の微妙さと言うものが。おかげをいただくということは。
夕べもその事を話さして頂いたのですけれども信心しておかげを頂くと云うのはね、人が良いのと、悪いのとは別物じゃと仰る。だから勿論良い方へ良い方へと進んでいくのが信心ですけど、福岡の志木先生の場合はより本当の事をせんならんと言うことを人に教えておられる。より本当のことに自分もならせて頂きたいと云う願いを日頃持っておられる。だからこそこういう訳ですから、私が行くのが本当、参るのが本当だけれどもこんな風でと云う事すらも許されなかった。お前日頃本当な事が分かりたい、又人に教えておるじゃないか。そんならより本当な事をするのが信心じゃないかと神様は仰る。そこでまちっと程度の低い人がです、済みませんこげな訳でならここでお届けするのでもそうです。そげな大事なお願いば、出てきてせじゃこてと言う事もあるです。けど私がそう思うたらそげんなるです。やっぱりいいですよ、お電話で好いですよと、そこのにきを一遍とって抜けてのお取り次ぎをさせて頂くことによって電話でもおかげを頂くのです。だからその人がより本当な事が段々分かる様になったら何を置いても出てくる様になるでしょう。それはだから過程のものです。
本当の済まんと思うとるのと、言葉で済まんと思うとるのは違うです。だが心から本当に済まんと思うとったらそれだけでおかげにならんです。それこそ済まんと思うとるなら本当の事をせろ、ということです。そこんにきがです、親だから子だからと親子の仲だからと言うようなね、心情が生まれて来る。電話でね、どうも済みません、と。
まあ口では言うてもです、やはりお取り次ぎを願わなければ居られないからお取り次ぎを頂いておる。良いですよ、それでおかげになる。だから今日はね、わが心で忌みけがれを犯すこともあり払うこともある。本当に体がよごれとります、ということに本当に不浄感を感じたらそれでおかげになりません。けれどもそれは正常にいうなら生理のおかげを頂いとる事だからお礼を申し上げる心にならせて頂いたらおかげが受けられる。それは不浄にはならないと云うことです。
祈りておかげになるもならぬもわが心、同じ事をお願いする、甲の人はおかげを受ける、乙の人はおかげにならん。いわゆるわが心である、自分の心である。
私共が神様に少々無理を言うてもおかげのあるもなきも、わが心とおっしゃる。例えそれが無理な事をお願いしても、普通でいうなら不浄と言うことであっても、神様がお前ばっかりはいつもこんな無理なこつばっかり云うちから、と言いながらもあんまり満更嫌でもなさそうな、満更心の中には可愛いものじゃと、云うようなことでおかげを下さるのと、一遍で神様がはねつけなさるようなところがあると私は思うです。そこで日頃神様にです、愛される心の状態を作っておかねばならない。それはご用をさせて貰うとか、毎日一生懸命お参りしよります、と言うことではなくてです。本当に親だから子だからと言うような心情がいつも通うておらなければならない、ということです。頼む時だけの神様ではなくてです、常日頃から親と子の関係が何とはなしに情をもって通うておると云うようなおかげを頂かねばならん。確かに御道の信心は人が悪いとか、あの人は善か人、神様か仏様のような人じゃと言うても次々に難儀な事が起こってくると、世界ではどうした事であろうか云うようなことがあろうがと、信心しておかげをおかげを受けるのは別物じゃ。今日はその別物でそのおかげを受ける別物だと言うことを、まあ云うならば心理的な面を聞いて頂きました。どんなに悪人でも、どんなに悪い人でも、お取り次ぎを頂くことによっておかげを頂くという意味ですけど、それでもやはりおかげを受けるという事でございますけど、今日はそう言う意味でなくてです、心理的なもの、自分の心の底に動いているもの。それの私は我心、わが心で犯す事もあり払うこともあり同じ事柄でもおかげになる、ならないと云う微妙な処を聞いて頂いた。どちらも我が心に有りとあり、忌みけがれは我が心でと、犯す事もあり払うこともあると、祈りてみかげのないときは、在るもなきも我が心と同じ事我が心と在りますが、今日はその我が心というのは自分の心の中に潜在するもの、また深理、心理と言うあの心理ではない、深いところに在るもの、そのおかげの受けられる状態の処を聞いていただいた。なかなか説明のしにくい処ですけども済みませんと口で言うとるのを本当に済みませんと云うたらもうおかげにならん。けれどもその済みませんが甘える様な心の状態、この頃あれば買うて貰うてちっとは虫が好すぎる、それでもやはりもう自分は愛されていると思うから甘えておる。そして片一方ではもうお前には適はんよと云いながらも本当に適はんのじゃない、買うてやるのが嬉しいごたる風で、買うてやるようなテレビのコマーシャル、一コマからです。私共と神様の仲にもそう言うものがあると言う事。だがそう言う状態がいつも在って好いと言う事じゃない。やはり育たなければならないと言うこと。育っていく為にはです、私共が別の場面ではです、これが本当と思うたら、これが本当と思う事をやってのけれる信心にならなければ信心の向上はないということ。だからそこにはね、やはり教えがあり云うならばお徳にひたって信心の稽古をさせて頂くということ。どれが本当だと言う事がいつまでも続くと言うことではならないということ。
昨日は高松さん処の和子さん、今の順子さんが姉さんになる、二十五年の式年祭がありました。もう前からお願いがしてあるし私は昨日もう朝からその霊様の事を思うと、何か有り難いものがもようして来るのです。そして眼をつぶるたんびんに私が頂くのがキューピーマヨネーズと頂くのです。そしたら次にはキューピー80と言うことを頂くのです。
マヨネーズというのは以前御理解で頂いた事が在りますが、あのマヨネーズというのは卵の黄身にオイルが入って、ヨーズが入ってそれの練り方、混ぜ方一つで美味しいマヨネーズが出来る出来んが決まると言う事をいわれます。これはお母さんの和子さんの信心だとおもいます。そりゃもうそういう意味で見事な練り方が出来る方ですから。教えて下さるなと言う事は分かるけど、キューピー80と言うのが分からなかった。それでお祭りを仕える前にこういう事を頂くがキューピー80とはどういうことじゃろかと、私が申しましたら、光昭がそりゃテレビで云っているじゃないですか、今朝それがあっとった。
お父さんは仕事のしすぎじゃないですか、疲れ取るじゃないですか、キューピー80飲みよるですか。というのがありますよ、と言うことを光昭が申します。
それを頂いて尚一段有り難うなって、もう感動いっぱいで始めから霊様のお祭りを仕えさせて頂きました。亡くなったのは生まれて直ぐで在っても二十五になっている。それがねお母さんに信心の励ましをされるくらいな、御霊に成長しているということです。それがもしあの世は暗黒だと云われとるですね、暗黒の中でウロウロしとったら育っとりゃせんです。処が光を持っている。お父さんはほんの僅か、一年半でしたけど当時の神愛会の総代をして居る。それからおじいちゃんは神愛会の亡くなられてから初代教霊、その時分は金光教というのではなくて、いうなら新興宗教の部類に入ってましたからね。神愛会ですから初代教鑑といはば讃えられた方です。ですからお父さんとか、おじいちゃんの光の中で育てられておると言うこと。だから育てられると言うことになるといつも甘えたというか、今日の御理解のように、そりゃおかげを受ける、受けないは微妙なんだけれども、悪人でもおかげが頂けるんだけれども、それが不浄な事で在っても甘えて頼めば、もうお前には仕様がなかと言うて下さるように○ものだという風に聞いて頂いたが、それだけで好いのじゃない。福岡の志木先生の話をしたように、こうすることが本当だと言う事が分かったら、分かったところへ進んで行かなければ神様のお育てを頂くことは出来ません。
だから徳の中であり、光の中でなからなければお育ては頂けんと言うことがわかります。
親神様に今月のお祭りの霊おかげを頂いて、いうなら神様の御守護の中で、おかばいの中に、おかげを頂いて、段々成長のおかげを頂いて、親に励ましの言葉一つぐらい言える位に、お育てを頂いて居ることを有り難いと一番に神様にお礼申さして頂いたら、あのお花の下の赤いのはあれはホーズキなんです。あのホーズキがね全部提灯になった処を頂いた。だから何が提灯になったか、ホーズキになったかと言うと、結局お父さんやおじいちゃんが光を持って居られた。その光の中で育てられた霊だと言う事を思わせて頂いたんですけど今日はそのおかげを頂く機微と言うか、まあ深理の面を聞いて頂いたと思うが、ならそれでいつまでも甘えかぶった信心で好かろう筈は在りませんのですから、やはり光の中で育てなければならん。合楽ではお徳を受けるためにはそういうお話をいつもさせて頂いておりますからそういう信心に進んで行かなければならない事はもちろんですよね。
                                                                        どうぞ